第15章 ガリバー企業への挑戦
しかし1000万を超える案件は相変わらずD通やH堂等都内の大手広告代理店が根こそぎ刈り取っていくわけで、弱小企業1社ではとても太刀打ちできません。
そこで県内の制作会社を集めて団体で戦わないと勝てないと思い、有志を集い1985年に映像文化連盟という16社ほどの規模で団体が設立されました。
まだまだVP が作れる会社は少なく幼稚園の発表会程度を生業にする会社がほとんどでした。
ある時期の運営会議で私は全員の名簿を県内行政機関及び企業にDMを送る提案をすると、団体内での有力会社ばかりに注文が来との理由で多くの会員から言われ愕然とします。
D通やH堂に対抗して地元の小規模企業にも大型案件獲得のチャンスを得るために立ち上げたはずの団体でしたが、私の浅知恵であったことを悟り、結局4年で解散することになりました。
その後は自分の会社の営業だけに専念することと決め、県内で初めての本格映像編集スタジオを完成させます。今ではパソコンで簡単にできるエファクトが、当時500万程したことは
今の若者には驚きだと思います。
結局自社のみで大手制作会社との戦いは続けることになりますが、自分達の制作物が失敗したら、二度と地方の会社には注文が来なくなるのではないか。
大手のD通、H堂を意識し地元でも良いものが作れるという意識と地方を代表する責任感が強すぎた為、予算以上に経費をかけ過ぎ利益はほとんどありませんでした。
ある日都内の仕事を終え帰宅の途中に某大手制作会社の前を通りました。
時間はすでに午前1時過ぎていましたが、ビルの電気はまだ煌煌としていました。
彼らは名前だけで仕事を取っているわけではなく、地方の制作会社の数倍努力しているのです。
地方の会社といえば、特段の努力もなく大手に対する愚痴と僻みばかりが聞こえてくるばかりです。私は自社の努力不足を再認識することとなりました。
1990年ぐらいからデジタル化を進めて、私どもの機材もテープからデジタルにしていくわけですが丁度その頃バブルが崩壊しました。
企業を相手にしていた映像会社は大変苦労した時期だと思いますが、弊社は官公庁を中心に売り上げが80%を占めていたのでその影響はあまり感じませんでした。
後に官公庁のヘレナと揶揄されるのですが、まだこの時期では民間企業と行政機関との売上バランを考えるほどの余裕は自社にはありませんでした。
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