第20章 新たな事業に次々挑戦
94年ISDNの登場から国の政策もあって全国の自治体・団体が一斉にウェブサイトを立ち上げます。次々にウェブ制作のプロポーザル(最も良い企画に仕事が発注される)が舞い込み
参加するのですが、ライバルとして参加する会社は業務管理ソフトを得意とするシステム会社がほとんどでしたので、官公庁における広報・PRを多数手がけていた経験や映像制作企画で培ったノウハウを生かして提案書を作り多くを受注しました。
これはもう本当に楽しい時代でウェブ制作の企画コンペの連絡が来たら、もう売り上げに上げてもいい、それくらい負けるはずがないと思っていました。
結果、県内自治体・団体の3、4割程受注しウェブサイトを作りました。
ある街では、市役所、観光協会、教育委員会、福祉協議会、商工会等行政機関から観光、教育、福祉、企業団体まで全て当社が製作しました。
某役所の担当者の言葉が今でも忘れないです。
「もうこれ以上御社にお願いすると情報の独占になるから、私どもは頼むつもりはありません。」とはっきり言われました。
残念ではありましたがある種誇らしく思ったことを覚えています。
県や市町村首長の個人サイトも多数制作しました。
仕事で大変お世話になっている取引先の首長でしたが、びた一文値引きしませんでした。
多分そうした姿勢が首長にとって頼み易かったのかもしれません。
それにしてもよく働いた時期でもありました。
月曜から金曜日までは営業で外回りが基本、ビデオパッケージの製作があれば同行し、土日はブライダルの撮影を自らカメラを担いで行いましたので、休みは仏滅の日曜日だけです。
仕事中は無論の事、食事、トイレ、移動中、就寝時でも風呂以外は終日メモ帳を肌身離さず持ち歩いていたのはこの頃からです。
アイデアが浮かんだらすぐメモできる為といえば聞こえが良いのですが、実際には「他のライバル会社は夜中も仕事をしているのではないか」という強迫観念が常に頭をよぎり、その心配を払拭する為にメモ帳を身に着け、24時間働いているつもりでいたのです。
正に私の干支が午年だけあって馬車馬のごとく働いた訳です。 笑い
1995 年映像編集がパソコンで出来るノンリニア編集になりました。パソコンとソフトがあれば誰でも簡単に編集ができるようになりました。数千万かけた自慢のスタジオはガラクタと化し、機材を処分した時はアナログからデジタル時代に移行する流れを実感しました。
97年にR天が日本における本格的なネット販売サイトの立ち上げをしました。
遅れること 1 年、自社で茨城県に特化したネットショッピングサイト茨城インフォナビを立ち上げました。名店 100選と銘打ち茨城の面白い食べ物や飲み物、工芸品等をPRし、直接販売で販売拡大に寄与することを目的に開設しましたがお世辞にも地元に貢献できたとは言える効果はありませんでした。
私は新しいことに挑戦することは得意ですが、それを儲けにする才は無いことをつくづく思い知らされました。
